10年先を思い出して。

日々のつなぎ目

1月14日_カフカの小説を再び読みたい

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昨日までの日記には、紙面がボールペンの殴り書きでいっぱいになるほどだったのに。今日はあまり書かなかった。

「書くことがない」と書いて、あとは思い浮かんだ単語を並べてしばらくボーッとして、もういいやってページを閉じてしまった。

 

失恋したわけだが、「書くことがない」とは前向きになれた証なのではない。ネガティブな気持ちは昨日のうちに書き出してしまった。

 

怒りや悲しみはそれなりにエネルギーを消費する。それで子供のころを思い出した。嫌なことがあって泣き喚いたとき、あまりに感情が昂りすぎて逆に疲れてしまって、なんで泣いてるのか、どうして泣き喚いていたのか自分でもわからなくなる経験は誰にでもあるだろう。それと同じ。なんだか疲れてしまって、ポジティブにもネガティブにもならないしなれない。根っこはネガティブなので、デフォルトのネガティブ思考に戻って一旦停止している状態。

 

あぁ、もうなんかどうでもいいやって気分。投げやりになって何かをする気にもなれず、ただ口を開けてため息ついてただけで2時間くらい過ぎていた。

 

『止まない雨はないとか言うヤツいるけどさ、俺はいま降ってるこの雨がすでに耐えらんないっつってんの!』

どこかで見聞きしたのを急に思い出した。

 

『鬱は大人のたしなみですよ。それぐらいの感受性を持ってる人じゃないと、俺は友達になりたくないから。こんな腐った世の中では少々気が滅入らないと。社会はおかしい、政治は腐ってる、人間の信頼関係は崩壊してる、不安になる。正常でいるほうが難しいですよ』

これはリリーフランキーの言葉らしい。

 

『将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。』

これを言ったのはフランツカフカだ。

 

カフカの小説って憂鬱なときに読むとすっごく沁みる。心が温まるとか気持ちがラクになるとかじゃなくて、ただ同じ波長に揺られて同調し、共鳴できる心地よさがある。

 

僕は昔、よくカフカの小説を読んでいた。

◯家族からは存在自体を否定され、自分が餓死しているのを確認できた日はよく晴れていて、家族みんなでピクニックに出かけちゃう「変身」。

◯仕事の依頼主には一向に会わせてもらえず、町の住民からは部外者扱いされながらもその町に溶け込もうと努力し、当初の目的を忘れて日々をさまよい続ける「城」。

◯何も悪いことをしていないのに「いいえ、あなたは罪を犯しました」として100%有罪になる裁判を起こされ、ひたすら時間稼ぎをしたある日、処刑人が自宅にやってきた頃にはすでに内容不明の罪を認めてしまっており、街の外れに連れて行かれて殺害される「審判」。

 

カフカの小説は、たいていはよくわからない状況から始まって、整理されないまま物語が進み、ついによくわからないままに終わる。ここに、うまく言えない心地よさがある。それは憂鬱なときとまったく同じだからだ。

 

いま頭の中をいっぱいにしている憂鬱さが、人生を大きく左右すると感じているし、生きるのをやめてもいいとすら考えしまう。

 

どうしようもできないままに毎日を生きている。まるで満員電車が停止してドアが開いて、人の動きに押し出されたり押し戻されるようにして。

その理不尽さから逃げ惑ったり、周囲に翻弄されたりして、望んでこうなったのではない人生をリアルタイムでまさに今歩んでしまっている感覚が、僕には常にある。

 

この感覚が強まっているときにカフカの小説を読むと、心の中で地続きになる。なぜなら人生もまたよくわからないままにいきなりスタートして、よくわからないうちに終わるだろうから。たまに嬉しいことがあってもすぐ剥奪されたり、運良く壁を避けられても次の壁にぶつかるし。

 

カフカの小説読みたいな。元気なときには読めないんだけど、いま憂鬱だからちょうどいいかも。