
週明けの月曜日。今週の金曜日に大事な用事があり、その食事の予約をした。
写真は土曜日、東京に行ったときのもの。社会人になってはじめて一人暮らしを始めた場所、多摩市の聖蹟桜ヶ丘だ。
ここ数年は、こうして過去に暮らしていた場所を訪れることが多い。なにか意味がある気がする。大きな変化か。脱皮している最中に、すでに脱げた身体部分の殻を見つめているような感じ。
過去の自分がベリっと剥がれ落ちる。懐かしさ、別れ、過去との決別。いろんな意味がごちゃまぜになって、結果として昔住んでいた町並みを訪れることになっているのだと思う。
この風景の場所をよく歩いていた。
多摩川へ合流する小さな川が街のいたるところを流れていて、水も透明でキレイだった。よく仕事終わりに落ち込んで、川に触れられるところまで階段を下っていき、そこで何十分も座っていた。夜の水面には信号機の光が映り込んで揺れ動いてて、川はいつも右から左へずっと流れ続けていた。
遊歩道を歩いていると、「ジグソーパズルみたいだな」と思った。
ここで必要だった経験、好きな風景を集めて、また別のところへ行ってピースを集める。その繰り返しが生きる営みではないか。少なくとも、自分の場合にはそう感じられる。
人生ではじめてメンタル疾患になり、自分はそんな心の弱い人間じゃない……と思っていた自分が、そちら側へ仲間入りしたときの街。イヤなことがたくさんあった街なのに、あれから5年以上経ったいま、わざわざ時間とお金をかけてまで訪れる街になっている。
この聖蹟桜ヶ丘が特別なのではない。ほかにもいくつか住んでいた街があるが、どこもまた訪れたいと思っている。
これを書いていて思うのが、これは記憶と感情の断捨離なのではないだろうか。ものを捨てるときと似ているからだ。なかなか捨てられないものは、なんども不要だと思って手にとってはまた保管してしまう。でもきっと心の準備が整ったときに、スッと捨てられて、もう部屋からなくなってしまうとスッキリするのだ。
なんども訪れたい街は、いつか訪れたいとは思わなくなるのかもしれない。それはそれで多分いいのだと思う。人生が1枚のジグソーパズルなら、また別のピースが必要なのだ。








